ウェルビーイングな人生には健康が不可欠。私なりの健康法、マンション生活から武蔵野の生活、そして卓球以外の趣味(歌、写真など)について発信します。
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人間:はびこることに今のところ成功している物質の一存在形態に過ぎない?
高知工科大学で新入生に対して環境について講義をするとき、いつも最初に問いかけたのが見出しの言葉です。「個人的な見解だけれど、宇宙の中に地球が誕生してから現在までに何が起こったかについて現在分かっていることを総合すると、次のように考えざるを得ません:
ウイルスも、すべての生物も、人間も、
「はびこることに今のところ成功している物質の一存在形態に過ぎない」
というしかない。
全知全能の神が天地や生き物や人間を創ったのであれば、それは奇跡でも不思議でもない。
「はびこることに今のところ成功している物質の一存在形態」であるにもかかわらず、このような社会を創り、地球を上空から観ることができ、さらに、「この自分を自分だ」と思いながら今、ここに生きている自分がいる。だから奇跡なのだ」、と。
だけど、人間は「健康に、幸福にはびこっているだろうか?持続可能なはびこりかたをしているだろうか?」これを考えるのが「環境について学ぶこと、考えること」だと。
健康:かかりつけ医や専門医には感謝してもしきれない
「七十にして心の欲するところに従えども矩を踰えず 」と論語には書いてありますが、現代では20年ほど後ろにずれているように思います。多分。惑いながらも惑う範囲が狭まり、己の天命はこの範囲程度だったのだと悟り始め、矩を踰えたら健康を損ねて、多分ウェルビーイングな生活か人生そのものが早く終わるだろう、と最近思うようになったことは確かです。
8か月、1720gの体重で母親の胎内から出てしまったせっかちな私ですので、お医者さんのお世話になりっぱなしで、ペニシリンなしでは七五三を迎えることはなかったと思います。20歳の頃には十二指腸壁から4200ccも出血して駅で倒れて救急搬送。生死の境を彷徨いました。その後節制を続け、山を駆け巡った大学院生時代、30歳過ぎになって卓球を週に一度はしっかり練習する生活が可能になりました。今では、週に2~3回の練習が持続可能かを手探りする日々ですが、その間にも心臓弁膜症の手術、成人病についてのかかりつけのお医者さんのアドバイスなど、生まれた時からお医者さんにはお世話になりっぱなしで、感謝してもしきれません。
しかし、「耳順」うことの出来る自分自身がこそ「ドクターG」
しかし、自分の体質、弱点や毎日の調子や、体の異常の箇所、程度や頻度は「体と対話している」自分自身しか分かりません。また、別の目で見てくれている家族、趣味などの仲間の気付きに耳を傾けて、自分自身が総合診療医(ドクターG)になることが肝心だと思います。「六十にして耳順う」、その通り。ですが、なかなかです。20年プラスして80歳になったら、他人の言葉に素直に耳を傾けることが出来るようになるでしょうか?「心の欲するところに従えども矩を踰え」なくなるのは、文字通り「亡くなってから」かなと思いつつ、それまでは「肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態(well-being)」を実現したいものです。
生活:ウェルビーイングな生活には、コミュニティ、行政、世界の「健康」が必要
生きていると、「ウェルビーイングな生活には、コミュニティ、行政、世界の健康が必要」と痛感させられます。家族というコミュニティ、職場というコミュニティ、マンションや地域のコミュニティの健康の実現は本当に難しい。それは、私たちが「人間だから」かも知れません。また、コミュニティの健康は、自治体行政や国の行政・政治及び社会環境や自然環境の健康に大きく左右されます。そして、それは、世界の自然や社会の健康と切っても切れない関係にあります。決して新しい概念ではない「one health」ですが、新型コロナ感染症を契機に注目されてきました。厚労省・農水省・環境省は、ヒト、動物、環境の健康を~ 「ワンヘルス(One Health)」としてとらえる取り組みをしています。さらに、planetary health(地球の健康)の視座の重要性が指摘されています。
グローバルな社会の健康が失われていることの最たるものは戦争だと思います。本当に多くの医療関係者の努力や費用やコミュニティの力を動員して、1人の患者を救急搬送し、輸血し、手術し、リハビリし、ウェルビーイングな生活を取り戻す-これが普通の世界です。ところが、戦争では、わざわざ人間から血を奪い取って成果を誇示するのです。不健康の極みであり、一瞬にしてウェルビーイングな生活への努力を吹き飛ばしてしまうのです。
趣味:楽しいことに没頭しなければ生きて行けない
どうしてか分かりませんが、人間は楽しいことに没頭しなければ生きて行けない生き物のようです。私の場合、研究も教育(というか学生と一緒に何かすること)も楽しいことだったので、「趣味が仕事?仕事が趣味?」だったのは事実ですが、日本のシステムでは、公的な仕事は年齢制限によって強制終了になりますので、卓球という趣味を細々と続けてきたのは幸せなことです。